怒り。

スピリチュアルな知人がいる。
(正しくは、知人が知らない内にそっち方面の道へ進んだ)
震災後、その人は、語った。(ブログで)
自分がその地で修行した(修行した地だったらしい)のは、
このためだったのか、と。
自分の道は常に真理へと近づいていて、
そして、東北へ何度も足を運んで、「救い」を行っていると。
そのブログは、言葉遊びで溢れている。
綺麗な、綺麗な言葉で、耳障りの良い言葉で溢れている・・



言い様のない怒りが湧いた。
被害に遭っていない私が言える事ではない。
金銭的な募金以外に何もしていない自分がどうこう言える立場ではない。
少なくともその人は現地に行き、布教活動的なものだけでなく、
現地の人を助ける行為もしているだろう。



でも。修行に選び、ご自身に先見の明のようなものがあったというのなら、
では何故地震前に何も行動を起こさなかったのかと言いたい。
後で起きた事に対して、あれこれ理由付けをすることは誰にでも出来る。
「過ぎた後だからこそ」言える事は沢山ある。
でも、「過ぎた後」では、何の意味もないんだよ。
あの震災で亡くなられた方々を、
自ら死を選んだ賢い人だと定義する、その言葉が許せない。
生まれ直す必要がある人だと定義するその言葉が許せない。

数年にも満たず命を落とした幼子もいるのに、
生まれ直す必要があったなどと、言えるその神経が許せない。



死は、運命なのかも知れない。
人は、自殺以外で自らの死期を選べない。
死は受け入れるしかないものであり、あるがまま受け入れるべきだと、
それは真理なのかもしれないけれど、
でも、それを、たった半年足らずの月日が流れただけで、
大切な人を亡くした人々が納得出来るとでも思っているのか。



綺麗な綺麗な、言葉遊び。


心の底から怒りが湧いた。